ミュンヘン・フィルを聴く前に~鈴木淳史さんの音楽エッセイ②

 ブルックナーの交響曲が演奏される前のコンサートホールは、まさに祭りの日の朝を思わせる厳かな空気が漂っている。開演前に男子トイレに並ぶ人々―「ブルックナー行列」という数学用語のような言葉さえある―は、御輿を前にして士気を昂ぶらせているように見えるほどだ。

 今回、ワレリー・ゲルギエフとミュンヘン・フィルによって演奏されるのは、交響曲第9番。作曲家の死によってフィナーレ楽章の完成は叶わなかったものの、3楽章形式の交響曲として演奏され続けている作品だ。その3つの楽章は、わずかの隙もなく書かれ、それだけでも巨大な威容を誇る。
 ブルックナーの交響曲は、「自然」とか「宇宙」などといった言葉で形容されがちな、人間という枠を軽々と超えるような音楽だが、この第9番の突き抜けっぷりは、まさに彼岸的といっていい。そこからは、機能和声を揺さぶらんばかりに、新しい響きも聴こえてくる。

 この作品のことを考えていると、「機動戦士ガンダム」の最後のエピソードに登場する「ジオング」なる人型ロボット兵器(作中では、モビルスーツという言葉が使われていた)をつい思い出してしまった。敗戦が間近に迫って完成が追いつかなかったため、人型なのに両脚がなく、それでいて最強。その精悍なフォルムや俊敏な動きが、じつにカッコいいのであった。最後は相手方の大将ガンダムと両者相打ちとなり討ち死、儚さとともに、描かれなかった未来をも感じさせる存在でもあった。

 この交響曲は、アダージョ楽章で締めくくられる。チャイコフスキーの「悲愴」交響曲や、マーラーの交響曲第9番など、今でこそ、アダージョ楽章で終わる交響曲も馴染み深くなってきているが、ブルックナー本人にしてみれば、未完成の作品であり、不本意だったはず。コツコツと積み重ねたもので最後に大伽藍を築き、一つの閉じられた完璧な世界を作りあげるのが、彼の交響曲のスタイルだったからだ。

 そうした事情を鑑み、近年では、作曲家が残したスケッチなどから、音楽学者が第4楽章を補筆完成させ、それを基に演奏する機会も少なくない。
 ラトルがベルリン・フィルで、この4楽章版を演奏したときのことだ。第3楽章が終わったあと、「このあとの音楽は不必要」と、幾人もの聴衆がこれ見よがしにホールから退出していった。「認めたくないものだな、足の生えたジオングなんてものを」といわんばかりの勢いで。

 蛇足上等。わたしは、こうした補筆完成版も面白く聴いてしまったわけだが、この第9番は第3楽章で終わってこそ、という思いもじつによくわかる。  なんといっても、このアダージョ楽章の最後、すべてを受け入れ、肯定感に満ちたコーダで終わるという美しさ。まるで、ひとつの生命がすべてをまっとうして、土に還るかのように。その「足」をもたぬがゆえの浮遊感のなかで、世界は閉じられることなく、永遠へと開かれる。
 はたして、ミュンヘン・フィルはどのような永遠を導いてくれるのだろう。

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鈴木淳史(すずき・あつふみ)
1970年生まれ。音楽エッセイスト・音楽評論。主な著書に『クラシックは斜めに聴け!』(青弓社)『背徳のクラシック・ガイド』(洋泉社)『クラシック悪魔の辞典』(洋泉社)『クラシック音楽異端審問』(アルファベータ)などがある。共著『村上春樹の100曲』(立東舎/栗原裕一郎編)が6月15日に発売。
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写真=ワレリー・ゲルギエフとミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
(C)Andrea Huber

ワレリー・ゲルギエフ指揮 ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
2018年11月29日(木)19:00開演
フェスティバルホール

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