「修二会、表現の根源にあるもの」。 書家の紫舟さんにとっての東大寺 修二会


書家の紫舟さんはかつて奈良・東大寺の近くに3年間暮らし、研鑽を積んだ時期がありました。
3月には修二会に通い、声明を聴き、練行衆の行を目の当たりにすることで、五感が研ぎ澄まされる感覚を味わったといいます。


そんな紫舟さんに、修二会と表現について寄稿いただきました。


修二会、表現の根源にあるもの

紫舟(書家)

仏教においては、人間が心の在り様で自分の幸不幸を決められる、と東大寺の筒井長老から学んだ。

お釈迦様の教えを修め、人々に伝え、この世とあの世をつないで人々の心に寄りそう場はいつしか、「観光」スポットとして、または仏教「美術」として人気を集めるようになった。……けれど、いにしえからの役割そのままに「神聖さ」で人々を魅了し続けているお寺、それが東大寺である。

お水取りの行は、不退の行。
1272年のあいだ一度も止むことなく、二月堂が焼失したときも、生きること自体が困難な時代でさえも、守り抜かれて行われてきた。その姿勢は今でも変わらない。SNSでの情報収集が当たり前になったこの時代でも、そして未来においても必ず続いていく。東大寺の修二会こそ、神聖さに貫かれた行事だ。その精神性の高さに、わたしも長らく魅了されている一人だ。

書家になったばかりのころ、研鑽を積むために東大寺の近くで町屋を借り、三年間くらしていた。そのころは、3月1日から14日は東大寺に通った。修二会といえば、二月堂を昇るお松明が一大イベントに思われがちだが、この明かりは本来、二月堂をのぼる僧侶の足元を照らすためのもので、1200年前には、今でいうLEDライトの役割を果たしたのだろう。お松明が終わると、二月堂内での練行衆の行を拝観する。そこには、モクモクと立ち込める煙、響き渡る声明、鈍い五体投地の音と鳴りつづける僧侶の硬い足音、目の前を走る練行衆の影、蠟燭の明かり、積み上げられた平たい餅。

極寒の中で格子の先のそれらを数時間凝視すると、五感が研ぎ澄まされていく、正直に云う、……いわばトリップする感覚が訪れる。

その時、修二会には、「すべての表現物」の根源があると分かった。歌や踊りなどの表現は、人間を喜ばせるためではなく、神仏に捧げるために生まれたと。表現は神仏への思いから生まれ、それぞれの地域の歴史的な背景や思想の影響をうけながら発展し、いまのミュージカルやストレートプレイ、音楽コンサートやライブ、さまざまな造形物へと形を変えてきた。表現の源流は、神仏への思いかもしれない。

この気づきで、表現者として自分の制作にも向き合うことになった。初期のころは人を感動させたいという動機から筆をもっていた、今は神仏に捧げる覚悟をもって制作している。修二会のありようが、今のわたしを導いてきてくれた。


紫舟 SISYU

「書」を平面や伝統文化の制約から解放した『三次元の書』をはじめ、伝統文化 を新しい斬り口で再構築した書の作品は、唯一無二の現代アートと言われている。フランス国民美術協会展で金賞を受賞するなど、日本だけでなく世界でも活躍。
2023年3月24日から5月7日まで、奈良県金峯山寺にて「地獄絵図展 ~行ってはいけな い処・地獄~」を開催。

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